2018年11月16日
半田・常滑を訪ねる③―杉杢天井と虎斑の楢材
江戸時代から明治初期にかけ、海運業や醸造業で財をなした中埜家の旧邸が建築されたのは明治22年(1889)とのこと。くしくも、「みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚」で活用を考えている掛塚の旧津倉家住宅が建てられたのと同じ年。建物にも共通点が見られるかも知れません。
先ず気がついたのは天井板。柾目でも板目でもなく、美しい杉の杢目板が使われています。旧津倉家でも見られる杉杢天井。杉板を縦横に組み合わせた網代天井も、旧津倉家の茶室に残された手法と同じです。
足元に目をやれば、虎斑(とらふ)が浮き出た楢材が使われています。旧津倉家の広縁と比べると幅は狭いのですが、木目の美しさが際立っています。
掛塚湊にあった津倉家は、廻船問屋を始める前から材木業を営んでいた家。天竜川を流れて下った信州や北遠の木材を商う仕事でしたから、良材を集めることも難しくはなかったはず。一方、知多半島に立地する中埜家は半田運河に隣接していたとはいえ、良材を手に入れるのは決してたやすくなかったと考えられます。
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掛塚湊にあった津倉家は、廻船問屋を始める前から材木業を営んでいた家。天竜川を流れて下った信州や北遠の木材を商う仕事でしたから、良材を集めることも難しくはなかったはず。一方、知多半島に立地する中埜家は半田運河に隣接していたとはいえ、良材を手に入れるのは決してたやすくなかったと考えられます。
木造住宅は木が「命」。旧津倉家住宅に使われている木材を、大工・木工職人や製材に関わっている人に見てもらい、もう一度見直してみる必要があるのかも知れません。