2017年05月29日
「遠州山辺の道」金刀比羅神社を訪ねる⑩―神楽殿と渥美長吉

今から百五十五年前の安政三年(西暦一八五六年)三月、初めてのお神楽を二十一日間、奏進したところ、連日参拝する人々が絶えず、村の人達も、これから、お神楽を奏進することに賛同した。そこで、井伊谷の領主(近藤家)の許可や、中泉の代官所の承認を得て、いよいよ本格的に実施することになった。
ところが、突然、家元から苦情が出て、神楽の免許が無くては実施することができなくなった。当時、家元は小川村(現在の天竜区小川)の市川豊後守で、秋葉神社、光明寺の神楽を司ると共に、当地方の神楽の取締り(を)していた。
そんな経緯の後、当時の世話人たちが免許を得るための努力を重ねた結果、ようやく免許を得て・・・
神楽殿を建築することになり、当時、この地方随一の名工といわれた、上島村の渥美長吉氏にお願いした。翌安政四年(西暦一八五七年)神楽殿が落成したのを祝って、晴れてお神楽の奏進をした。

鞘堂(龍燈)の写真は、かなり前に私が撮影したもの。明治28年(1895)造と言われていますので38年後の建築。神楽殿を造った当時の渥美長吉は随分若かったことになります。