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2017年03月19日

鶴ヶ城を訪ねて①―さくま昔ばなし「鶴ヶ城」

Tsurugajyo1 今からおよそ四百年前の日本は「戦国時代」と呼ばれ、各地の大名や豪族たちが、自分の勢力をのばそうとしのぎをけずり、互いに争っていました。

 そのころ最も勢力の強かった大名は、駿河からこの地方まで勢力をもっていた今川義元でした。一方、甲斐の武田信玄、三河の菅沼氏や伊藤氏もこの北遠地方で勢力をのばそうとしていました。

 こうした中で、鶴ヶ城は、川上地区の向かい側にある高さ約百メートルほどの山の頂上に築かれ、下から見上げると、ちょうど鶴が舞い立つように見えたので、このような名前がつけられました。

 城主もこの城の名をとって、鶴山大磯之丞と言いました。

 永禄三年、今川義元は大群を率いて、駿府から京都を目ざして進み、天下統一の夢を果たそうとしました。しかし、桶狭間において、織田信長に大敗し命を落としてしまいました。すると、菅沼氏や伊藤氏は、次第に勢力を北遠地方にのばし、鶴ヶ城(永禄七年頃築城)の近くまで攻めてくるようになりました。

 永禄十一年の年が明けると、別所城主、伊藤源太郎貞次は、長篠城主、菅沼定景の援軍と共に、鶴ヶ城に大挙攻め寄せてきました。

 地の利に恵まれた鶴ヶ城は、攻めかかる敵軍を退けていましたが、多勢に無勢、落城の運命は目に見えてきました。やがて、味方は力尽きて全員で討ち死にすることになりました。しかし、城主の大磯之丞は、何とかして城兵の命を助けてくれるように、敵陣に使者を送りました。

 交渉の結果、家老山田半之亟を人質として差し出し、その間に城主が切腹することになりました。この時、奥方も運命を共にしたと言われます。約束にしたがい城兵の命は助けられました。

 落城は、永禄十一年二月、城下を流れる相川のほとりに、ねこやなぎのつぼみが、そっとふくらみはじめた頃でした。(「さくま昔ばなし」より)

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Iriguchi 久しぶりに佐久間町川上の山城・鶴ヶ城跡を訪ねました。

 鶴ヶ城跡は県道9号から入ったところ。県道脇には看板がありますので、そこから少し坂道を登ります。

 車から降りて振り向くと見える山が鶴ヶ城があった城山。送電線鉄塔が立つ山の少し右手に残る山城跡まで歩いて行きましょう。



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