2017年03月23日
鶴ヶ城を訪ねて⑤―馬出曲輪と本曲輪
尾根道に出てから馬出曲輪までは、そんなに遠くはありません。曲輪(くるわ)とは、城内の縄張り(区画)の呼び名。馬出(うまだし)曲輪は、城の入口に当たる虎口(こぐち)の外側に設けられた防御のための区画ですから、必ずしも馬を飼っていたり、騎馬隊がいたわけではありません。
その奥の平場が本曲輪とされ、馬出曲輪と本曲輪には社のような小屋が建てられていますが、これらは城郭とは関係ありません。
曲輪は杉に覆われていますが、戦国時代には見晴らしの効く山だったはず。永禄12年(1569)に落城した後、鶴ヶ城は利用されることなく放棄されていたようです。それが逆に、かつての曲輪の面影を残す城跡としてあることにつながっているのかも知れません。
本曲輪の奥には土塁も残り、その脇にはかつての城主の霊を祀ったものか、石の祠が立っていました。
その奥の平場が本曲輪とされ、馬出曲輪と本曲輪には社のような小屋が建てられていますが、これらは城郭とは関係ありません。
曲輪は杉に覆われていますが、戦国時代には見晴らしの効く山だったはず。永禄12年(1569)に落城した後、鶴ヶ城は利用されることなく放棄されていたようです。それが逆に、かつての曲輪の面影を残す城跡としてあることにつながっているのかも知れません。
本曲輪の奥には土塁も残り、その脇にはかつての城主の霊を祀ったものか、石の祠が立っていました。