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2023年01月10日

難攻不落の高天神城跡を歩く④―的場曲輪跡と石窟

的場曲輪跡 「三日月池」から上に上がると、そこは細い尾根。「的場曲輪跡」の標柱が建てられていました。

この場所は、表示から想像すると、弓矢等の練習をしていた場所と言われている。数年前に発掘した時は、砂利が敷きつめてあった事が確認されている。これは、重い物を置いても沈まないようにする為、あるいは鉄砲の弾薬を置いていた場所で、湿気防止の為ではないかと言われている。

 ・・・と、ここまでは良いのですが、そこから左手に回り込む道を行くと、そこにあるのは「石窟」と呼ばれる洞穴。徳川方の武将・大河内源三郎が8年間幽閉された石牢です。

大河内幽閉の石風呂(石窟)大河内幽閉の石風呂(石窟)

天正2年6月武田勝頼来政包囲、28日激戦酣となった。城主小笠原長忠遂に叶わず武田方に降り城兵東西に離散退去したが軍監大河内三郎政局独り留り勝頼の命に服さず勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松政局の義に感じ密かに厚く持て成した。

天正9年3月徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際牢内の政局を救出した。足掛八ケ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え労をねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。政局無為にして在牢是武士道の穢れと思い剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて長久手に戦い討死した。


 私の知人は、この石窟を怖いと言っていましたが、今では石窟は中が見えないように石と丸太とで完全に封鎖。しかし、今川⇒徳川⇒武田⇒徳川と変遷を辿った高天神城の歴史を知れば、怖くなるのも分からないわけではありませんね。「どうする家康?」。



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