2018年10月31日
舞坂宿「往還通り」を歩く③―一里塚址
「見付石垣」の先に残るのは「一里塚址」。「舞阪郷土史研究会・浜松市」の解説看板によれば・・・
江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604年)、主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより、日本橋を起点として1里(約3.9㎞)ごとに、道の両側に土を盛り、その上に榎や松などを植えた一里塚が整備されていった。
一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う目安にもされた。舞坂は一里塚は、日本橋から68里(約267㎞)に位置し、松が植えられていた。
江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604年)、主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより、日本橋を起点として1里(約3.9㎞)ごとに、道の両側に土を盛り、その上に榎や松などを植えた一里塚が整備されていった。
一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う目安にもされた。舞坂は一里塚は、日本橋から68里(約267㎞)に位置し、松が植えられていた。
現在、土盛りは残っていず、「一里塚址」の標柱が建てられているだけ。それでも、舞阪の町歩きをする人なら、一旦ここに立ち止まり、いにしえの旅人に思いを馳せていただきたいと思います。