2019年03月12日

勝越峠を訪ねる②―言い伝え

勝越峠 元亀のむかし権現公(徳川家康)は光明寺にたてこもり、信玄は秋葉より攻めよせてきた。
 そのとき、信玄の射た矢は光明寺の釣鐘にあたり釣鐘はわれてしまった。この信玄の射た矢には短冊がつけてあった。それに次のような歌が書いてあった。

 松絶えて
    武田栄えて
       千代の松

 権現公はこのうたの、ての字にニゴリを付け

 松絶えで
    武田栄えで
       千代の松

として再び矢につけ信玄に射返したという。
 光明寺には本田平八郎忠勝と信玄勢と戦ったといわれる地がある。そのとき、権現公は横川を渡り百古里に着いた。(昔の万世東原である)そのとき権現公は、やあ腹がへった。飯を食うと言って松の木を折り箸として飯を食った。その箸を自分が天下になれば老繁れと言って、その地にさしておいた。
 ここから権現公は、西進すべく中原にでるとき、ここは勝越だといわれた。今の勝越の字名は権現公が名づけた所となって今なほその徳をたたえて勝越という。


勝越峠の山道 これが勝越(かっこし)峠の言い伝え。家康が足跡を残した峠に立てば、あなたも天下を取った気分になれます。



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