2019年03月18日
「下百古里の将軍杉」を訪ねる③―武速神社4社
坂上田村麻呂が東征の際に勝利を祈願したと伝えられる、県指定天然記念物「将軍杉」で有名な下百古里(しもすがり)の武速(たけはや)神社の祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)。同じ天竜区光明地区には、武速神社が4社あります。
下百古里の武速神社には、室町時代の永徳2年(1382)、江戸時代の寛永16年(1639)と貞享元年(1684)の再建や修復の棟札が残されているとのこと。
『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等と表記されている須佐之男命は、我が国最古の歴史書『古事記』では建速須佐之男命とか「武速須佐之男命」として登場しています。武速神社の「武速」とは、「武速須佐之男命」に由来しているものと思われます。
ヤマタノオロチ退治の武勇伝を持つ須佐之男命は、何よりも災いを除く武勇の神。坂上田村麻呂が祈願したというのも、そんな武勇にあやかりたい気持ちから。武速神社4社にも、そんな気持ちを表した軍国主義時代の痕跡が見られます。
武速神社4社を訪ねたのは、平成24年(2012)の夏。上百古里(かみすがり)の武速神社は、茶原(ちゃばら=茶園)の間を抜けて登ります。大杉の先に小さな社がありますが、境内には「當所在郷軍人會」と刻まれた常夜燈の基台が残っています。大平(おいだいら)の武速神社の石鳥居には、「國家安穏」の文字が。神道が宗教ではなく、「国家神道」の色彩濃い時代があったことが伺われます。
下百古里の武速神社には、室町時代の永徳2年(1382)、江戸時代の寛永16年(1639)と貞享元年(1684)の再建や修復の棟札が残されているとのこと。
『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等と表記されている須佐之男命は、我が国最古の歴史書『古事記』では建速須佐之男命とか「武速須佐之男命」として登場しています。武速神社の「武速」とは、「武速須佐之男命」に由来しているものと思われます。
ヤマタノオロチ退治の武勇伝を持つ須佐之男命は、何よりも災いを除く武勇の神。坂上田村麻呂が祈願したというのも、そんな武勇にあやかりたい気持ちから。武速神社4社にも、そんな気持ちを表した軍国主義時代の痕跡が見られます。
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武速神社4社を訪ねたのは、平成24年(2012)の夏。上百古里(かみすがり)の武速神社は、茶原(ちゃばら=茶園)の間を抜けて登ります。大杉の先に小さな社がありますが、境内には「當所在郷軍人會」と刻まれた常夜燈の基台が残っています。大平(おいだいら)の武速神社の石鳥居には、「國家安穏」の文字が。神道が宗教ではなく、「国家神道」の色彩濃い時代があったことが伺われます。
光明地区の武速神社4社。その境内で、若き出征兵士を送る歓呼の声が響いた時代は、それほど昔のことではありません。しかし、「お国のために」は決して本心ではなかったはず、と信じたいところです。