2018年07月24日
豊川海軍工廠跡を訪ねる⑦―土塁と排水路
豊川海軍工廠は敷地外周に土塁が巡り、その外側には排水路が設けられ周囲と画されており、工廠内外への出入りは正門・西門・北門・北東門など限られていました。昭和20(1945)年8月7日の空襲では、工廠外へ避難しようと人が集まった正門・西門附近に500ポンド爆弾が着弾し多くの犠牲者を出すなど、敷地が土塁と排水路により画されて門が限られていたことは、空襲被害を大きくした一つの要因でもありました。排水路は戦後の改修整備で姿を変えつつも、今もなお豊川海軍工廠の存在を大地に刻んでいます。(現地看板より)
看板にはさらに「元工員の空襲体験手記より」として・・・
2mぐらいの深さがある濠(排水路)へ飛び込み、外へ這い上がらなければならない。濠には水はなかった。上空にはB29の編隊が次々と続いていた。濠の中には10名ほどの男女がいて、這い上がろうともがいていたが、濠の土手に生えていた草はむしり取られていてつかまる物がない。一刻も早く外に出たいと焦っていて、お互いに押したり引っ張ったりして廠外に出た。(元機銃部工員の三浦清さんの手記より)
看板にはさらに「元工員の空襲体験手記より」として・・・
2mぐらいの深さがある濠(排水路)へ飛び込み、外へ這い上がらなければならない。濠には水はなかった。上空にはB29の編隊が次々と続いていた。濠の中には10名ほどの男女がいて、這い上がろうともがいていたが、濠の土手に生えていた草はむしり取られていてつかまる物がない。一刻も早く外に出たいと焦っていて、お互いに押したり引っ張ったりして廠外に出た。(元機銃部工員の三浦清さんの手記より)
豊川海軍工廠の周囲は、まるでお城のような防御。周囲ぐるりを土塁と外堀が巡らされ、逃げるには数少ない門に限定されていましたので、逃げ惑う人たちが押し合いへし合いした姿が目に浮かびます。