2018年07月18日
二本杉峠の大杉①―「さくま昔ばなし」より
佐久間町にある二本杉峠には、昔、大きな二本の杉がありました。そのため二本杉峠といわれていますが、別名は「辞職峠」とも呼ばれています。
それは、ある一人の警察官が、水窪警察署勤務を命ぜられ、やっとのことで二本杉峠にたどりつきました。さて、水窪はどこだろうと見わたしたところ見つからず、通りがかりの人に聞くと、まだ、はるか向こうの山のあたりと知らされて引きかえしてしまったということです。このことから、そのような名がつけられたと伝えられています。
峠は、佐久間町佐久間より北へ登り、天龍川・大千瀬川の流れにそって点在する下川合・中部・佐久間を見わたせる場所に位置し、北を眺めれば水窪町の奥の西浦谷から白倉方面の山々がのぞまれます。
昔は、天龍川の丸太流しとともに、この道は、信州方面へ通ずる重要な街道として、生活の物資や、秋葉詣での人々が行き来していました。
城西方面からは約六キロメートル、佐久間方面からも約六キロメートルのところにあります。
二本の大木で有名な二本杉峠の杉の木を植えた人については、いろいろな説があります。信州遠山城の城主、遠山土佐守だという人や、中部の水巻城城主奥山美濃守が武田氏との戦いに向かうおりだという人や、布教の途中の弘法大師、あるいは、天下統一の途上にあった徳川家康だという人もあります。名高い九州屋久島の杉の例で考えても、直径七メートル以上の木は、千年前後を要さなければ育ちません。その点から不可解な点は残りますが、ここでは徳川家康の手によって植えられたとして話をまとめました。
元亀元年(一五七〇年)頃、敵に追われて天龍川伝いに逃げた家康は、山住峠を越えて門桁部落に足をふみ入れ、数々の言い伝えを残して助かります。これより、五、六年過ぎた天正三年頃、三方原で武田軍と合戦し、布橋の戦でやぶれてしまいました。しかし、再び勢いを整えて今度は逆に武田勝頼の軍をやぶり、なお甲州の天目山(現在の笹子峠)をめざして逃げる勝頼軍を追って北上しました。そして現在の二本杉峠にさしかかりました。
その時、弁当を食べることになりましたが、はしがはいっていませんでした。仕方なく近くの杉の小枝を二本切って、はしのかわりにして食べました。食べ終わった後、二本のなしを地面にさしました。そして、その二本の杉を指さしながら、
「われ(わたし)が、出世したら、なれ(おまえ)も大きく育て。」
と、さけびました。そして、天下統一、天下の将軍にまで出世した家康の出世とともに、その杉の木もぐんぐんと大きく育ったそうです。
けれども、明治十年頃、持ち主の事情によって切られたそうです。東の方の木は、木のまわりが二十メートル、西側の木も十九・七メートル、高さは五十メートルもあったそうです。しかも、一番下の枝で、巾一メートル、高さ三・六メートルの板が九枚もとれたということです。そして、その代金は、実に二百円もしたそうです。当時、お米が一俵(六十キログラム)五十銭だといいますからおどろくほどの値だんなのです。
切った人は、天龍市の人(尾張屋旅館の近くの人)で、二本の杉を切ったようすが、掛軸に描かれて残っているそうです。その絵によりますと、足場を杉の木のまわりにつくり、上の方から板目に引いて(木びき)、だんだん下の方におりてきたそうです。
切られた杉は、二本杉から天龍川に運ばれて下り、掛塚から、海路で東京へと出航しました。しかし、途中、あらしにあって、遠州なだに沈んでしまいました。
しかし、あまりの巨木であるために、ふしぎな力が宿っているだろうと想像した人々は、杉の根を掘り取って服用しました。特に、虫歯にきくといって近郷近在から訪れたといいます。
それにしても、戦いによって手にしたものは、力によってうばわれ、大木は海に沈んでしまいました。まるで歴史の重みをみるようです。(初版「さくま昔ばなし」より)
◆ ◆ ◆ ◆
二本杉峠を越えたところ、羽ヶ庄の集落で、たまたま帰宅していた早川さんのご家族とお目にかかることができました。お母さんのお話によれば「箸を地面に挿した時に、枝を逆さに挿してしまったもんで、枝を根とが逆さに育ったような姿だったって。日が南に回ると、この辺りも陰になったくらいに大きな杉だったんだってさ」とのこと。その大きさを思い知らされます。
「玄関のこの木は・・・?『二本杉ノ木』って書いてあるけど」「ああ、それは・・・」。
「杉の木を切った跡の根っこのところを蹴っからかして持ち帰って磨いたんだって。本物だよ」と。あの峠に、二本の杉の巨木があったのは間違いありません。
それは、ある一人の警察官が、水窪警察署勤務を命ぜられ、やっとのことで二本杉峠にたどりつきました。さて、水窪はどこだろうと見わたしたところ見つからず、通りがかりの人に聞くと、まだ、はるか向こうの山のあたりと知らされて引きかえしてしまったということです。このことから、そのような名がつけられたと伝えられています。
峠は、佐久間町佐久間より北へ登り、天龍川・大千瀬川の流れにそって点在する下川合・中部・佐久間を見わたせる場所に位置し、北を眺めれば水窪町の奥の西浦谷から白倉方面の山々がのぞまれます。
昔は、天龍川の丸太流しとともに、この道は、信州方面へ通ずる重要な街道として、生活の物資や、秋葉詣での人々が行き来していました。
城西方面からは約六キロメートル、佐久間方面からも約六キロメートルのところにあります。
二本の大木で有名な二本杉峠の杉の木を植えた人については、いろいろな説があります。信州遠山城の城主、遠山土佐守だという人や、中部の水巻城城主奥山美濃守が武田氏との戦いに向かうおりだという人や、布教の途中の弘法大師、あるいは、天下統一の途上にあった徳川家康だという人もあります。名高い九州屋久島の杉の例で考えても、直径七メートル以上の木は、千年前後を要さなければ育ちません。その点から不可解な点は残りますが、ここでは徳川家康の手によって植えられたとして話をまとめました。
元亀元年(一五七〇年)頃、敵に追われて天龍川伝いに逃げた家康は、山住峠を越えて門桁部落に足をふみ入れ、数々の言い伝えを残して助かります。これより、五、六年過ぎた天正三年頃、三方原で武田軍と合戦し、布橋の戦でやぶれてしまいました。しかし、再び勢いを整えて今度は逆に武田勝頼の軍をやぶり、なお甲州の天目山(現在の笹子峠)をめざして逃げる勝頼軍を追って北上しました。そして現在の二本杉峠にさしかかりました。
その時、弁当を食べることになりましたが、はしがはいっていませんでした。仕方なく近くの杉の小枝を二本切って、はしのかわりにして食べました。食べ終わった後、二本のなしを地面にさしました。そして、その二本の杉を指さしながら、
「われ(わたし)が、出世したら、なれ(おまえ)も大きく育て。」
と、さけびました。そして、天下統一、天下の将軍にまで出世した家康の出世とともに、その杉の木もぐんぐんと大きく育ったそうです。
けれども、明治十年頃、持ち主の事情によって切られたそうです。東の方の木は、木のまわりが二十メートル、西側の木も十九・七メートル、高さは五十メートルもあったそうです。しかも、一番下の枝で、巾一メートル、高さ三・六メートルの板が九枚もとれたということです。そして、その代金は、実に二百円もしたそうです。当時、お米が一俵(六十キログラム)五十銭だといいますからおどろくほどの値だんなのです。
切った人は、天龍市の人(尾張屋旅館の近くの人)で、二本の杉を切ったようすが、掛軸に描かれて残っているそうです。その絵によりますと、足場を杉の木のまわりにつくり、上の方から板目に引いて(木びき)、だんだん下の方におりてきたそうです。
切られた杉は、二本杉から天龍川に運ばれて下り、掛塚から、海路で東京へと出航しました。しかし、途中、あらしにあって、遠州なだに沈んでしまいました。
しかし、あまりの巨木であるために、ふしぎな力が宿っているだろうと想像した人々は、杉の根を掘り取って服用しました。特に、虫歯にきくといって近郷近在から訪れたといいます。
それにしても、戦いによって手にしたものは、力によってうばわれ、大木は海に沈んでしまいました。まるで歴史の重みをみるようです。(初版「さくま昔ばなし」より)
◆ ◆ ◆ ◆

「玄関のこの木は・・・?『二本杉ノ木』って書いてあるけど」「ああ、それは・・・」。
「杉の木を切った跡の根っこのところを蹴っからかして持ち帰って磨いたんだって。本物だよ」と。あの峠に、二本の杉の巨木があったのは間違いありません。