2020年01月01日
明治維新後の磐田②―「遠州報国隊」大久保家による茶業振興
前回では、幕臣だった赤松則良による磐田原の茶園開拓について紹介しましたが、「遠州報国隊」として倒幕に参加した大久保家はどうだったのでしょう?

明治時代の銅版画「靜岡縣遠江國磐田郡見附町大久保忠利邸宅」には、屋敷内の磐田文庫奥に「第一製茶場」、屋敷外に「第二製茶場」が描かれています。
大久保忠利とは、淡海国玉神社神官であり、「遠州報国隊」の首謀者の一人だった大久保春野の妹の夫で、江戸に留まった春野に代わり、淡海國玉神社の宮司を務めた人物。その一方で、明治17年(1884)には豊田郡の一部・磐田郡・山名郡の茶業者に呼びかけて見付茶業組合を結成。高品質の茶葉生産を普及したり、横浜港に出張所を設けて販路を開拓し、 明治27年(1894)頃には見付に製茶伝習所を開設したりもしました。
つまり、磐田に輸出用の茶生産を普及し、その生産・管理の技術ノウハウを確立したのは、かつては討幕と佐幕とで対立していた、「遠州報国隊」ゆかりの神官と幕臣や移住を余儀なくされた士族とが力を合わせた成果だったという次第。

明治時代の銅版画「靜岡縣遠江國磐田郡見附町大久保忠利邸宅」には、屋敷内の磐田文庫奥に「第一製茶場」、屋敷外に「第二製茶場」が描かれています。


当地方では見慣れた茶園風景にも、遡ればこんな歴史があったのです。