2018年03月13日
中部・馬背神社を訪ねる⑦―3基の忠魂碑
中部・馬背神社の境内脇には、いわゆる忠魂碑が3基建てられています。真ん中の「殉國戦士之碑」と向かって右の「忠魂碑」は石碑ですが、左の1基は砲弾の形をした金属製です。
一番大きな「殉國戦士之碑」の文字は誰が書いたものかは不明ですが、「忠魂碑」は「陸軍中将従四位勲二等功二級兒玉如忠書」で、砲弾の形の「明治三十七八年戰役紀念碑」は、「陸軍少将従四位勲二等功三級石原應恒書」。
「兒玉如忠」は、長州藩に生まれた児玉恕忠(こだまじょちゅう)。陸軍少将・歩兵第17旅団長として日露戦争に従軍した軍人です。「石原應恒」(いしはらおうこう)は、陸軍少将・歩兵第11旅団長として、やはり日露戦争に従軍。「明治三十七八年戰役」とは、もちろん日露戦争のことです。
近頃、顧みられることが少なくなったいわゆる忠魂碑ですが、これらを戦争賛美として見るのではなく、戦争犠牲者の供養塔であり、「戦争は二度としない」誓いの象徴と考えるわけにはいかないでしょうか?
戦争犠牲者には出征軍人だけではく、国内で被災した民間人はもちろん、日本軍が死傷させた数多くのかつての敵国人も含めなくていけないと思います。
一番大きな「殉國戦士之碑」の文字は誰が書いたものかは不明ですが、「忠魂碑」は「陸軍中将従四位勲二等功二級兒玉如忠書」で、砲弾の形の「明治三十七八年戰役紀念碑」は、「陸軍少将従四位勲二等功三級石原應恒書」。
「兒玉如忠」は、長州藩に生まれた児玉恕忠(こだまじょちゅう)。陸軍少将・歩兵第17旅団長として日露戦争に従軍した軍人です。「石原應恒」(いしはらおうこう)は、陸軍少将・歩兵第11旅団長として、やはり日露戦争に従軍。「明治三十七八年戰役」とは、もちろん日露戦争のことです。
近頃、顧みられることが少なくなったいわゆる忠魂碑ですが、これらを戦争賛美として見るのではなく、戦争犠牲者の供養塔であり、「戦争は二度としない」誓いの象徴と考えるわけにはいかないでしょうか?
戦争犠牲者には出征軍人だけではく、国内で被災した民間人はもちろん、日本軍が死傷させた数多くのかつての敵国人も含めなくていけないと思います。