三河の小京都、西尾城下町を歩く④―本丸丑寅櫓
そもそも、西尾城とは・・・?鳥羽上皇が承久3(1221)年、鎌倉幕府に奪われた権力を朝廷に取り戻そうとして起きた「承久の乱」。結果は武家政権の勝利となり、その功績として足利尊氏に築城を許されたのが西尾城。その後、「桶狭間の戦い」により今川義元が織田信長によって破られる室町幕府が終焉。徳川家康は家臣の酒井正親を「西尾城」の城主とし、その後は松平氏や本多氏などの徳川譜代大名が代わる代わる城主を務めたとのこと。
西尾城は明治4年(1871)に西尾県庁となり、取り壊されたのは翌年(1872)で、現在の本丸丑寅櫓などの復元は平成8年(1996)。中に入ってみましたが、確かに新しい感じ。
しかし、窓から覗いて外を見ると、城下を一望できるのは確か。動乱の時代が終わった後に建てられた本丸丑寅櫓は、あくまでも権力の象徴、地域のシンボルの役割を担っていたのだろうと感じました。
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