磐田・歴史の道を歩く⑥―変遷を知る旧見付学校の窓
磐田のシンボルであり観光名所でもあった旧見付学校は、もちろん古い絵葉書にも登場しています。見付の佐口行正さんからお借りした絵葉書の中で探してみると、数枚の写真の窓の形が現在とは違っていることに気づきました。
その絵葉書には「見付学校」ではなく「高等裁縫女學校」とあります。
見付学校は、明治20年(1887)見付尋常小学校へと変わり、同41年(1908)から准教員養成所、大正11年(1922)からは県立見付中学校の仮校舎となり、8月からは大日本見付練武館の柔道場としても使用されました。
ところが、大正デモクラシーの影響で女性の進学希望者が増え、大正14年(1925)からは「高等裁縫女學校」として、裁縫・作法中心の良妻賢母教育の場と利用されるようになったのです。
窓が改修されたのは、この折のこと。裁縫の授業の時には、それまでの小さな窓では手元が暗いとの理由で、壁いっぱいに拡張されました。
その後も旧見付学校は、昭和14年(1939)から同18年(1943)までの間に再び准教員養成所に戻され、同20年(1945)春頃、校舎内部を改修し浜松陸軍病院見付臨時分院が開院。戦後、中泉に新病院が完成する同27年(1952)までは磐田病院としても使用されました。
現在では、「郷土館」として再び建築当時の姿に戻されましたが、旧見付学校にはこんな変遷があり、それを見て知っているのが窓ガラス。一部の窓には、景色が歪んで見える古い板ガラスがそのまま残っています。
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