磐田市駒場の駒場神社①―長豊橋
「2019磐田歴史検定」64番目の問題は「輪中であった掛塚地区は、他地区へ行く時は渡船に乗るか橋を渡る必要がありました。明治になると多くの橋が掛けられましたが、1875(明治8)年横須賀往還に掛けられた橋は何というでしょうか。〔A
. 長豊橋 B. 豊堀橋 C. 江口橋〕」。
その答えは「長豊橋」。橋によってつながった長上郡の「長」と豊田郡の「豊」とを採った名前です。
長上郡とは現在の浜松市東区と南区の一部と、天竜川を隔てた磐田市の掛塚・十郎島・白羽・豊岡・川袋の地域。そして、旧竜洋町のうち天竜川の東派川で切り離されていた袖浦村・十束村に含まれていたエリアが豊田郡の郡域。つまり、掛塚・十郎島・白羽・豊岡・川袋は、天竜川の中洲だった歴史を示すのが長豊橋の名前です。
これから向かう駒場は、豊田郡袖浦村の一部だった地域。長豊橋が架けられるまでは、天竜川本流から見て、袖のように見える派川(分流)、現在の第一号湛防路の先へは船で渡っていたのです。
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