我が故郷の「姫街道」を歩く⑫―服部中保次の墓
そして、訪ねたのは服部中保次の墓。ここでも、現地にあった解説看板を参考として紹介させていただきます。
服部小平太(中安次)の墓
服部小平太は、永禄三年(一五六〇)五月十九日の桶狭間の戦いで、織田信長の家臣として、毛利新助らと共に、今川義元を討ち取った功労者であった。
この地方が徳川家の勢力下に入ると、小平太は信長亡き後家康の家臣として、勲功によりこの地を治めた。もともと今川領だったこの地方には、桶狭間に出陣して戦死した者もあり、小平太に恨みを持つ者もあった。天正十五年(一五八七)六月十八日、小平太は単身この地を巡視の折、長坂の途中で暗殺された。その場所はここより数十メートル上にある。
祥栄院殿湖雲浄鑑大居士と刻まれているこの墓は、初め二代中保正により建てられたが七代中保貞が新たに建て直したものである。
ここより北へ二百メートルの所に小平太を祀ったとされる宗安寺の跡がある。
平成二年三月二十日
細江町教育委員会
戦国時代の武将たちは、次々と改名しましたので、なかなか同一人物と特定することが難しいのは確か。ただし、現在では服部小平太と服部中保次は別人とするのが一般的。
墓の横に建てられていた金属板に「小平太の 魂祭りせむ 今日の月 阿部源蔵」とあるのは、晩年は私の実家近くに住み、私もよく知っている阿部先生のこと。こんな形で再会できるとは思ってもいませんでした。
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