磐田に残る家康の足跡⑧―遠州浜松軍記
『遠州浜松軍記』には「本多平八郎忠勝、鹿の角打ちたる兜を居首に着なし、勝色おどしの鎧を着し、栗毛の馬に打ち乗り、十万切の鑓を馬の小脇に掻い込み、信玄勢大軍の中へ乗り込みて、彼の十万切渦巻くばかりに打ち合い打ち合い相戦いけるに、当る敵を中天突き上げ、当たらざる敵をば大地にどふと、石突にて突き伏せ、誠に鬼神も及ぶまじくと本多が武者振り」とも記されています。
家康はすぐに退却したのですが、蜻蛉切りの大槍を振り回して獅子奮迅の活躍をしたのが本多忠勝。その本多隊に道を譲り、家康が天竜川を渡ることを許したのが、信玄の近習(きんじゅ=主君のそば近くに仕える者)小杉左近でした。
一言坂の戦いの後、有名な「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」の狂歌を詠んだのが、小杉左近と言われています。
武田軍は天竜川を渡って追いかけることをせず、二俣城へと向かいました。
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