東海道・中野町を歩く⑥―「紀功碑」
中野町銀行跡からさらに西に向かって歩くと「紀功碑」の石碑が。ここに刻まれている内容も、天竜川を渡る船橋や木橋の歴史です。
天竜川橋紀功碑
天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平 の業績を刻んだ石碑である。
浅野茂平は、明治元年の明治天皇東行に際して天竜川に船橋を架けて安全な渡河に功績を残したほか、明治七年には船橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の活性化に大きく貢献した。その功績は今も語り継がれている。
石碑は、明治二十七年に建てられた。 浜松市東区役所
江戸時代、大井川には川越制度があり、徒歩で渡るか川越人足に担がれて渡ることしか許されませんでした。しかし、天竜川を渡るのは渡船。それには、天竜川の水量が豊富で渡船が可能だったのが第一の理由。しかし、架橋を認めなかったことについては江戸の防衛のためとの説が語られることが多いのですが、果たして理由はそれだけだったのでしょうか?
現在、架けられている3本の天竜川橋を見るにつけ、全長1キロにも及ぶ広い川幅への架橋は、技術的にも経済的にも、当時としてはかなり難しかったのが本当の理由だと私は思います。みなさんは、どう考えますか?
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