名望家・原田久吉翁の足跡を辿る⑤―中部邨新道碑
原田翁の玄孫の原田さん夫妻を次に案内したのは「中部(なかべ)邨新道碑」。割れた石碑は金網にもたれかかっていて、その碑文は読み取りにくいのですが、1字1字拾って読める文字だけを拾って並べてみたところ、次のような内容でした。
中部邨新道碑
拝文 従七位市河三鼎書
農商務大臣従二位勲二等陸奥宗光篆額
遠江國豊田郡北連信山西接三峡峰巒環抱田園 其間
而道 二國 崎區不週客足自未百未有開 路
行旅圖便安者可謂一國 茲明治二十四年神奈
川懸横濱市 原田久吉禀 官 皆 平
險 蕪未幾功業速就蓋自同郡中 三
樂郡 是旅客免行路以難
途 兩郡庶民得益者不尟不 郡
爲最大 久吉同邨松井茂助
田氏而家綦負
据強事業頗富産 家聲 是 舊里
道路險隘遂起 修 其功其徳豈
慈母里津猶在舊里躋
歳雙 復得見此偉業其 如何
其功 焉因書其由乃 頌曰
平 通山路兮闢蕪没
重車轍 他邦客兮寄鞋韤
兮補國魏
示 兮斯碑
中部有志共同建之
露木宗吉
「中部邨新道碑」が割れてしまったのは残念ですが、碑が廃棄されずに残されているのは、住民たちの感謝の気持ちの表れ。佐久間図書館で聞いた話によれば、今でも小学校では原田久吉翁が郷土に齎した橋や道路については教えているとのこと。
巨万の富を得て巨額の寄付をした人物としてだけではなく、その功績や考えが後世まで語り継がれ、将来を担う子供たちの生き方の手本となっていることこそが、原田翁の真の評価であると思います。
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