「下百古里の将軍杉」を訪ねる①―「ふるさとものがたり天竜」
その昔、西暦七九三年、時の桓武天皇は、将軍坂上田村麻呂に、東国征伐(蝦夷征伐)を命じられた。
田村麻呂将軍は、大軍をひきいて都を出発し、やがて遠江の国に入り、横川須賀里の武速神社に立ち寄って、勝利祈願をした。
その時、ちょうど昼時となったので、将軍は家来と共に、武速神社の境内に腰をおろして、食事をした。
やがて食事を終えた田村麻呂将軍は、自分で使った杉の箸を、かたわらの土の上に、ぐっと差しこんだ。
そしてもう一度、武速神社に手を合わせ、
「このいくさ、きっと我に勝利を与えたまえ。」
と祈願して立ち去った。
将軍が土に差した杉の箸は、やがて根を張り、枝を張って、すくすくと成長していった。
「さすが、将軍さまの使いなされた箸じゃわい。勢いのよいこと、勢いのよいこと。」
村人たちは、感心したり、たまげたりした。
時は流れて寛文十三年(一六七三)、四月、徳川幕府の代官である中泉の奉行が、領内巡視の時に、須賀里の武速神社に立ち寄った。
代官は、境内にそびえる杉の大木に感心して、
「これはまた、見事な杉の木じゃ。樹令は、いかほどか。」
と、村人にたずねた。
すると、村人が答えて言うには、
「はい、百年を過ぎたる、名木にございます。」
「おお、それはめでたき里である。これからは“須賀里”改め“百古里”とするがよい。」
代官は上気げんでそう言うと、次の村へと立ち去って行った。 (「ふるさとものがたり天竜・第3章光明地区」より引用)
◆ ◆ ◆ ◆
浜松市天竜区下百古里(しもすがり)の「将軍杉」の樹齢は1200年と伝えられ、「新・浜松の自然100選」だけでなく、静岡県の天然記念物にも指定されています。坂上田村麻呂が征夷大将軍を任ぜられたのは延暦16年(796)、同20年(801)には東征に成功していますので、須賀里を通ったとすれば、その頃。その折に、箸を差したとするなら推定樹齢は1300年となり、行基が植えたとされる「春埜杉」や「山住神社の杉」とほぼ同じになります。
「将軍杉」に近寄って見ると、この杉が一本杉ではなく二本杉であることに気づきます。「箸が育った」との伝説は、そこからの創作。2本の杉が合わさった「合体木」というよりも、根元に近いところから枝分かれした「双幹」のようにも見えます。
まあ、伝説の真偽を詮索しても、あまり意味があるとは思えませんが、「すがり」を「百古里」と表記するのは、地元でも不思議と感じていたのでしょうね?
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