磐田に残る家康の足跡①―徳川家康公腰掛岩
今から3年前になりますが、徳川家康と磐田との関わりについて知りたいと思い、磐田に残る家康の足跡を訪ねてみました。
先ず立ち寄ったのは、袋井市木原の許禰(こね)神社。旧国道1号から外れ、旧東海道に沿って鎮座し、神社を訪れる人を「徳川家康公腰掛岩」が出迎えてくれます。
辺りは、かつて武田信玄が陣を張り、家康軍と戦ったと伝えられる「古戦場 木原畷(きはらなわて)」でもあります。
現地に袋井市教育委員会が建てた看板によれば・・・
元亀三(一五七二)年、兵三万五千を率いて甲府を出発した武田信玄は犬居城、飯田城を落として久野城へ向かった。しかし久野宗能(くのむねよし)の激しい抵抗にあったため東海道を西に向いた、ここ木原、西嶋に陣をはった。これを知った徳川家康の兵とこの付近でこぜり合いをくり返した信玄はやがて二俣城を攻略し、東三河へ向かうべく三方ヶ原を通過しようとした。これに対して家康は兵一万で迎え撃ったが信玄の大軍の前に一蹴され浜松城へ逃げ帰った。これが世にいう三方ヶ原の合戦で、木原での戦いはこの前哨戦ともいうべきものであった。
・・・とのこと。
ここで言う「飯田城」とは現在の森町飯田にあった城、「久野城」は袋井市鷲巣にあった城。もしも、信玄が家康に勝って天下を取っていたとしたら、、「徳川家康公腰掛岩」ではなく「武田信玄公腰掛岩」になっていたことでしょう。
実際に家康が腰掛けたかどうかという歴史的事実云々よりも、江戸時代に東海道を往来する旅人たちにアピールするため?「関ヶ原の戦の勝利祈願のため当社を訪れた折、腰かけた石と言われています。」とされてはいました。
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