「川の交通を失う以前、鉄道で北を目指したことが2度あった」とは、二俣で聞いた話。1度目は、昭和5年(1930)に「二俣町駅」までが開通した光明電気鉄道であり、2度目が同42年(1967)に着工、12年後に中止された佐久間線です。
天竜川右岸の県道360号の伊砂(いすか)ボートパークの辺りから対岸、現船明隧道と大川トンネルの間の白いガードレールが途切れた場所に目をやれば、国道152号下にぽっかりと口を開けた旧佐久間線の船明トンネル坑口跡が見えます。
これが、船明トンネルの北口。そして、水位が下がった河原に下りると、現在の「夢のかけ橋」の手前で天竜川を渡る予定だった第一天竜川橋梁の橋台、コンクリート建造物が残されています。普段なら水面下に沈んでいるはずの河原には、鉄道の敷地で見られる「工」の標識杭(引照標)が残されていましたので、間違いありせん。
昭和55年頃に撮影された相津周辺の航空写真には、第二天竜川橋梁(現在の「夢のかけ橋」)と第一橋梁の橋脚が写っています。
確かに無謀とも思える計画でしたが、例え展望のない夢だったとしても、暑さに負けて家に閉じこもり、「現実的」というエアコンの風に吹かれてばかりの私たちよりも、まだマシだったような気がします。