醫王寺境内に立つ「坊中学校の跡」の解説看板。そこには、モダンな洋風校舎の写真が紹介されています。
明治5(1872)年、「学制」が発布されると、医王寺の住職伊藤淳岳は、翌年寺の本堂に学校を開きました。淳岳の意思を継いだ次の住職松村淳高は、私財を使って明治8年に医王寺の境内に坊中学校を建てました。文明開化の波に乗った白壁、テラスのある西洋風のモダンな校舎で、見付学校、西之島学校と共に遠州三大学校と言われました。しかし、この校舎は明治42年、火事に遭い焼失しました。毎年4月12日には淳高の功績を称え、医王寺では頌徳祭が行われます。(磐田市教育委員会文化財課)
何と、この醫王寺に、日本最古の木造洋式三階建校舎が建てられたとのこと。その後、明治34年(1901)高等科併置、同38年(1905)農業補修学校を併置して夜学制も導入。寺子屋から小学校へと継承される移行期の「郷学所」として、地域の教育向上へと貢献しました。
ちなみに、「坊中学校」は「坊さんの造った中学校」の意味ではなく「磐田市鎌田坊中(ぼうじゅう)」の「学校」のことです。