佐久間町浦川・川上林道を歩く⑥―奥山川
昭和橋を渡ってさらに奥へと進むと、奥山川が相川と合流する地点へと辿り着きます。さて、そこで相川に流れ込むこの川の名が、どうして「奥山川」なのかについて考えてみました。
「山の奥から流れて来るからじゃあないの?」などと、あっさりと言わないでください。ほとんどの川は、山の奥から流れて来ます。
現在の浜松市で「奥山」の名が残るのは、北区引佐町奥山。藤原北家井伊氏の一族で、遠江国引佐郡奥山郷から発祥したため、その「奥山」を名乗ったのが奥山氏。
南北朝時代、奥山六郎次郎朝藤は、建武3年(1336)奥山城に宗良親王を迎え、至徳元年(1384)には後醍醐天皇の皇子円明大師を招いて奥山方広寺を開基しました。その後、勢力を現在の佐久間から水窪へと広げ、延元3年(1338)、久頭郷城(高根城)を築き、尹良親王に供奉しました。
つまり、ここに出てくるのが北遠の奥山郷です。少し強引かも知れませんが、引佐町奥山から北遠に勢力を広げるには、この奥山川が流れる辺りの山を越す方が近かったのではないでしょうか?
この奥山氏の名が「奥山川」に残されたのではないかと推理したのですが、いかがでしょうか?案外、正解は「山の奥から流れて来るからじゃあないの?」だったりして・・・。
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