「金吾」奥山金吾正定則について④―長尾公民館の「英霊之碑」
戦前、戦中、武神を祀る八幡神社では、出征兵士を送る壮行会が開かれていました。おそらく、水窪町奥領家長尾(なごう)の「金吾八幡宮」でも同様の会が開かれ、日の丸の旗に送られて若者たちが戦場に駆り出されたことと思います。
長尾の金吾八幡宮の石段を下りて、公民館前まで来た時、敷地内の片隅にある石碑が目に留まりました。昭和53年(1978)8月15日に建立された碑には「英霊之碑」の4字が刻まれ、よく見られる忠魂碑の1つだと思われます。石碑の裏面には、12名の名が刻まれ、戦場で命を落とした若者の名と見受けました。
中には、我が子の武運長久を祈り、日参した親がいたかも知れません。戦争による犠牲者は、戦死者だけではありません。銃後を守る家族や、傷ついて帰国した戦傷者、もちろん敵国として戦った国々や戦場となったアジアの人々もまた犠牲者でした。
金吾八幡宮の「金吾」が、高根城を築いた奥山氏の始祖を祀った奥山金吾正定則を指しているのだとすれば、産土の金吾八幡宮にお参りをしてもなお、武運長久の願いが届かなかった人たちがいたということ。神の加護も届かないほどの悲惨で空しい戦争など、2度としてはいけません。
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