「松山公園」の弘法大師と四国巡礼札所本尊の石仏は、入口から奥へ、下から上へと並べられているのですが、石仏は覆い屋の中に1対だけのものもあれば、数対がズラリと並べられたものもあります。
三十四番を除く三十番台と四十番は見るからに新しく、台座に刻まれた文字を読むと、昭和58年(1983)、同59年(1984)に建立されたことが分かります。
・・・となると、これらは他の大正7年(1918)建立のものと比べると65~66年ほど遅くに造られたもの。そこには、どんな理由があったのでしょうか?
かつての写し霊場「北遠四國八十八ヶ所」が天竜川中洲にあったため、川の増水で流されて失われ、その穴埋めに再建されたとも聞いてはいたのですが、同じ三十番台の弘法大師像と札所本尊とが、半場の大日神社に祀られているのには、何か関係がありそうです。