光明山の参道は、一旦、林道光明大沢線で途切れます。金属の梯子を登り、再び、かつての参道と思われる道に出ました。
そこからは、尾根道に近い道を20分ほど歩くと、またまた町石の台座らしい石の板が現われました。石の真ん中が正方形に窪んでいるようです。この窪みに、「第○十○町」と刻まれた石柱が立っていたのでしょう。
それから、さらに20分。あった!倒れてはいましたが、間違いなく町石です。
正面に見える文字は「第三十五町」でしょうか?造立は「寶暦四甲戌年九月」。西暦に直せば1754年。先に見た「第二町」の町石が「寶暦六丙子年」でしたので、こちらの方が2年先に建てられています。
寄進者は「當國周智郡久保田村 本多七郎右衛門」。現在の春野町宮川字久保田の住人です。