四方を海に囲まれている日本列島―塩の専売法が施行されるまで、各地の海辺で塩が作られていました。岩塩の乏しい日本では、塩は海水より作るほかなかったのです。その塩は俵やかますに入れられ、人や馬や牛の背によって山の奥まで運ばれて行きました。そして日本各地には、海と山を結ぶ道が次々と開かれて行きました。これらは、塩を運んだことから「塩の道」と呼ばれ、その南ルートは相良から掛川を経て秋葉街道に入り、北遠の峠道や山里を抜けて、塩尻にまで達していました。
全国には、「塩町」と名のつく地名が数多く残っています。これは、塩の取引をする商人や問屋が集まっていたところの意味。浜松市にも、掛川市にも「塩町」が残っています。そして、佐久間町西渡(にしど)の山里にも、かつての塩問屋だったといわれる「達摩屋」さんの建物が、今も残っていました。
もちろん、江戸時代の建物ではありませんが、懐かしさを感じさせる建物。転んでも起き上がる縁起の良い「ダルマ」を屋号として、2階の左右の戸袋に、「ダルマ」の絵と「達摩屋」の文字が。おそらく人気の高い屋号だったのだろうと思われますが、「ダルマ」の漢字がよくある「達磨」ではなく「達摩」の文字が使われています。これには、特別の意味でもあったのでしょうか?
西渡は、浜背負いが塩を担ぎ上げた八丁坂の起点。おそらく、塩問屋「達摩屋」は、山里の中継点として、塩商いの采配を揮っていたものと想像します。