横須賀城の天守閣は、40坪ほどの広さに4層の天守閣があったと言われています。天守台の石垣は低く、北側に見える土塁は防御のために築かれたようです。
近くにあった再現模型を見れば、横須賀城の縄張りがよく分かります。
現在も残る三日月池が外堀の跡と思ったのですが、外堀はさらに外側にあり、土居道を挟んですぐ外側まで遠州灘の入り江だったようですから、海上交通の便もよかったことが分かります。
入り江が干上がったのは宝永4年(1707)の大地震の影響。その後、湊の機能は失われましたが、福田の太田川まで達する運河を建設し、福田湊を利用しての舟運を確保したとのこと。
明治維新により横須賀城は廃城となり、その後、民間に払い下げられたりして原型が失われかけていましたが、昭和56年(1981)に国史跡に指定されて遺構整備が進められ、現在のような城跡として復元されました。