現在、五社公園内にある「戊辰之役報國紀念碑」を建てたい旨を、長谷川貞雄が大久保忠利に宛てに記した文書「報國隊建碑之義」のハガキが残っています。
相談会は明治36年(1903)11月14日に開かれ、4年後の同40年(1907)11月に建立されたのが「戊辰之役報國紀念碑」なのですが、そのハガキを出した長谷川貞雄は、同38年(1905)2月8日に逝去していたはずです。
そのことに気づき、長谷川貞雄の名を確認してみようと考え「戊辰之役報國紀念碑」を訪問。裏面いっぱいにびっしりと刻まれた名前の中から、長谷川貞雄の名を探してみました。
すると、一番下の列、「發起人」の先頭に「従三位勲二等長谷川貞雄」と刻まれていました。そして、その頭には「故」の文字も刻まれているのに気づきました。つまり、「明治四十年十一月建之」の時、長谷川貞雄はすでにこの世にはいなかったのです。
長谷川貞雄の左隣には、同じ遠州報国隊の同志「男爵大久保春野」の名が刻まれていました。