蒲神明宮拝殿前の「みいの燈籠」に刻まれた碑文は、前回紹介した通り。小山みゑ(戸籍名みい)さんとは、文政4年(1821)長上郡都盛村に生まれ、機織りに関しては秀でた腕前の持ち主だったようです。
しかし、機織りなど所詮は農家の副業。産業とまでは言えない仕事だった機織りだったのですが、小山みゑさんは機械を改良し、従業員を雇って製造・販売に力を注ぎ、遠州織物の名を全国に知らしめるまでに育てました。
さらに、無用の競争を押さえ、粗製乱造を防ぐため、永隆社という織布業者の組合を組織したという遠州織物の「生みの親」であり「育ての親」でもある人物。
そんな小山みゑさんの顕彰文を、遠州報国隊に参加し、海軍主計総監や貴族院議員などを務めた長谷川貞雄が書くに至った経緯には、どんなことがあったのでしょう?
晩年、浜松に住むようになってからは、芳川銀行の頭取や遠州地方公共諸団体の役員を務めたりして、郷土の近代化、発展に寄与した長谷川貞雄。遠州織物のブランド確立にも、一役買っていたのかも知れません。