これも、古いカセットテープ「昔を偲んで~長谷川貞雄のお話」に録音されていた話題です。
誠心女学校を作ったのは息子の鐡雄様だった。鐡雄様というは、あんまり、利口には利口だっただが、弁天島を一人で買い占めちゃった。よかないわいね。その時分には、今の弁天とは違ってね、小さくて山の島だったの。川中島で。松ん生えてるだけでね。あんななとこ、買うじゃあなかっただで。
今はあんなに立派なもんだん、ね、埋め立てて。当時は松の木が生えてて、小さな島だった。貞雄様は国から買ったでしょ。弁天島を売り出した当時はまだ家はたくさんなかったでしょ。なぜっていうと弁天島を売って、誠心女学校に金を掛けたです。
長谷川鐡雄が購入し、「楽園」を創ったのは、JR弁天島駅北側。現地を訪ねてみると、現在は児童遊園地として利用されている辺りが「楽園」の跡。「舞阪町教育委員会」で建てた看板が、かつての繁栄を伝えています。
弁天島楽園(らくえん)跡
浜松開誠館の創立者である長谷川鉄雄氏は、大正十一年(一九二二)弁天島土地株式会社を設立し、ここに楽園を建設した。
楽園は大衆納涼場で海水浴場として諸設備や百米のプール、三百坪余りの大浴場、二百五十室からの貸席、五千人が利用できる無料の大休憩場からなり貸船、遊船、売店、余興娯楽の他、和洋食や飲物を安価で提供する大食堂があり、まさに夏のレジャーセンターとして多くの人で賑わった。
また弁天島は浜名湾遊泳協会発祥の地であり、楽園のプールを利用し競泳の全国大会が行われ、世界的な選手を輩出するなど水泳関係者の間では弁天島の名は全国に知れわたった。当時、弁天島を訪れた松島十湖(浜松市出身)は、「島狭し汽車の吐出す避暑の客」の句を残している。
しかし、この楽園も北弁天の埋立てが進むと共に経営も悪化し、昭和十一年(一九三六)に終焉をむかえた。(舞阪町教育委員会)
「フジヤマのトビウオ」古橋広之進らの名選手を生み出したのが浜名湾遊泳協会だとすれば、彼らを育てたのは、長谷川鐡雄の「楽園」にあった100メートルの弁天島プールだったのです。